葵は望の部屋の鏡の前に座らされ、目を閉じていた。
出かける前の朝なのに、部屋の空気はまだ寝起きの柔らかさが残っていて、カーテンの隙間から差し込む光が柔らかく二人を照らしている。
望の指が顔に触れるたび、いつもなら「動かないでよ」とか「この色、似合わないって言わないでね」とか、軽い冗談が飛んでくるはずだった。
でも今日は違う。
顔を近づけられた瞬間から、望は急に無口になった。
息遣いだけが近くて、ブラシの音と、時折聞こえる小さな吐息。
葵は目を開けないようにと言われていたけれど、その沈黙が気になって仕方なかった。
心臓がドクドクと鳴っているのが、自分でもはっきりわかる。
「……目、開けちゃだめ」
低い声が、耳のすぐそばで落ちた。
望の吐息が首筋にかかる。
温かくて、少し湿った息。
葵は反射的に唇を噛んだ。
いつもなら冗談で返せるはずなのに、今日は言葉が出てこない。
メイクが仕上がった気配がして、望が少し離れた。
葵は言われた通り目を開けた。
鏡の中の自分は、いつもより少し華やかで、でもそれより先に、隣に立っている望の顔が映っていた。
望は満足そうに、小さく笑っていた。
普段のからかい笑いではなく、どこか柔らかい、見とれているような笑顔。
葵は自分の顔より、その表情から目が離せなかった。
唇の端が少し上がって、目が細められている。
その笑顔が、妙に胸の奥を熱くした。
「……綺麗」
望が囁く。
葵は返事ができなかった。
出かける時間はとっくに過ぎているのに、二人とも椅子から立ち上がろうとしない。
望の手が、まだ葵の顎に触れたまま止まっている。
指先が、わずかに震えているのが伝わってきた。
その指が、ゆっくりと頬をなぞった。
葵は息を呑んだ。
望の視線が、唇に落ちる。
熱い視線。
葵は自分から少し顔を近づけた。
「行かなくていい?」
望の声が、少し掠れていた。
葵は小さく頷いた。
それだけでよかった。
望が身を屈め、唇が重なった。
最初は触れるだけのキスだった。
望の唇は温かくて、少し震えていた。
葵が口を開けると、舌がゆっくり入ってきた。
湿った音が、静かな部屋に響く。

