閉店十五分前に看板を下ろしてから、理人ははさみを持ち出した。
鏡の中で、透が目を細めている。
「悪いな、いつもこんな時間で」
「いいえ、別に」
理人の返事は短い。
透はそれを知っていて、いつも笑う。
五つ年下の美容師は、客の世間話に相槌すら打たないのに、指先だけはやけに丁寧だった。
濡れた髪をひと束すくい、角度を確かめ、刃を入れる。
落ちた毛が黒いケープを滑っていく。
「来月からまた撮影でさ。役柄上、ちょっと長めに残しとかないと」
「知ってます」
「知ってるなら、知ってるって教えろよ」
透は声を出して笑った。
笑うと肩が揺れて、切りかけの毛先がずれる。
理人は無言でその肩に手を置いて、元の位置に戻した。
触れた場所が、自分の手のひらの温度より高い。
雑誌でも広告でも、共演者の腰に手を回して笑っているこの人を見た。
そのたびに、耳の後ろのほくろまで、画面の向こうの誰かが知っているのだと思った。
「理人くん、今日ちょっと切り方が乱暴」
「乱暴にはしてない」
「してるって。怒ってる?」
「怒ってない」
言いながら、理人は透の耳の後ろに指を滑らせた。
ほくろの上を、意味もなく撫でた。
鏡越しに透の喉が動くのが見えた。
理人は手を止めなかった。
「……それ、髪切るのに要る?」
「要らない」
「じゃあなんで」
「ここ、他の人に触らせないでほしい」
言ってしまってから、はさみを置いた。
店内の音楽はとうに切ってある。
冷蔵庫の唸りと、二人の呼吸だけが残った。
透は鏡の中の理人を見ていた。
いつもの読めない顔が、今は隠しきれていない。
「触らせてない」
透が言った。
「ここ、理人くんしか触ってないよ」
理人はケープの留め具を外した。
黒い布を引き抜くと、透の首筋があらわになる。
シャツの襟が少し濡れていた。
「終わりましたけど」
「まだ座ってていい?」
「どうぞ」
理人は椅子の背に手をかけ、ゆっくりと回した。
座ったままの透と、立ったままの理人の目線が合う。
透が見上げてくる。
その顎に手を添えて、理人は身を屈めた。
唇が触れた。
キスだった。
透の肩が小さく跳ねて、それから力が抜けた。

